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| その世界遺産は、伝説が真実となった、 世界史上の“奇跡”である。 遺跡からは、漢字のルーツとなった 中国最古の文字とともに、高度な技術によって作られた が多数発掘された。実在が確認された、 中国で最も古い王朝。それが、世界文化遺産「殷墟」である
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| 天壇の三つの道。天壇では、天と人との関わり方が厳格に定められていた。「皇道」は、皇帝だけが通れる道。「王道」は、皇帝の家族や、大臣たちが通る道。「神道」は、天帝が通る道。すなわち、人間は決して足を踏み入れてはいけない道。清の時代、天を祭る儀式は、冬至に執り行われていた。また、旧正月には五穀豊穣を祈り、夏には雨を祈願した。現在は公園になっている天壇では、古(いにしえ)の皇帝が執り行った儀式が再現されている
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| 天壇の、音の不思議。中国の建築技術の粋を集めて造られて天壇には、驚くべき「仕掛け」が施されている。 「天心石」の上に乗って声を出すと、 天にも届かんばかりの大きな反響が返ってくる。
「三音石」で、手を叩くと、こだまが3回返ってくる。 「回音壁」の前で声を出すと、壁面に沿って声が流れていくかの ような、不思議な感覚を味わえる。 天壇は、まさに、天と通じ合えるような摩訶不思議な空間である。 |
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| 天壇には、3人の皇帝の物語が秘められている。明の3代皇帝、永楽帝は、人心を掌握するために造った天地壇が、今の天壇である。 12代皇帝、嘉靖帝が、天壇をほぼ、今の形にした。清の最盛期の皇帝、乾隆帝は、満州族の打ちたてた、清王朝の正当性を漢民族に知らしめる ために盛大な儀式を、ここで執り行った。天壇は、それぞれの時代の皇帝が、その地位を確かなものにするために祈りをささげた場所であった。 |
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| 中国の伝統建築の粋を集めて建造された華麗で荘厳な建物の数々。 その至る所に、神聖なる「気」が満ち溢れている。 「天壇」は、明の時代の初期に建立され、以来、500年に渡り、歴代の皇帝が天を祭ってきた場所だ。 |
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| 「峨眉山と楽山大仏」、その4、この地に生きる人々。 中国有数の霊山と、世界一巨大な大仏からなる複合遺産「峨眉山と楽山大仏」。 峨眉山に最初の仏教寺院を建てたのは、薬草採りを生業とする一介の農民だった。 その後、仏教の一大聖地になったこの地には、今では、26もの寺院がある。 峨眉山が世界遺産に登録されると、遺産の保護を目的に、山の民は、この地を追われることになる・・・
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| 峨眉山と楽山大仏その3、大自然。この遺産が、文化遺産ではなく、複合遺産に登録されている訳は、今に残る太古の大自然である。 霊山として歴代王朝に保護されてきたこの山には、3200種もの植物が存在し、そのうち100種余りは、この地にしか生えない固有種だという。 これほど豊富な植物が、狭い範囲に密生している場所は世界的にも稀だという 。 |
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| 「峨眉山と楽山大仏」についての放送2回目は、誕生の物語。楽山大仏がそびえる、凌雲山の麓には、3つの大河が流れる。そのため、古くから洪水に悩まされる地域だった。 そんな洪水から人々を救おうと、海通という一人の僧が、巨大な石仏の建立に着手した
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| その姿は、まさに圧巻!高さ71メートル、幅およそ30メートル。 世界最大の弥勒菩薩の座像である。 峨眉山と楽山大仏は、ともに四川省南部にあり、互いの距離は30キロほどだ。 どちらも、中国有数の、仏教の聖地。 地域は、希少価値の高い動植物の宝庫であり、この遺産は、 文化遺産ではなく、「複合遺産」として登録されている。 |
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| 海外で成功を収めた華僑たちの「夢の城」、それが、開平の望楼閣。 第二次世界大戦後、アメリカは中国人の排斥を一転した。これを契機に、華僑は、故郷の家族を呼び寄せ、アメリカに移住させる。世は移ろい、やがて村から人の姿は消え、開平には楼閣だけが残った。世界に憧れた華僑たちの思いが垣間見える絢爛たる建築。一つ一つの部屋にそれぞれの家族の物語が、今も、宿っている
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| 故郷を遠く離れ、苦難の末、異国で成功した華僑が、ふるさとの家族のために造り上げた楼閣、それが開平の望楼閣だ。しかし、華僑の成功は、皮肉なことに匪賊たちの呼び水になってしまう。贅を尽して建てられた楼閣は、よく見ると、見張り台や銃眼が至る所に設けられている。“世界建築史の奇跡”と呼ばれるこの楼閣には、動乱の歴史も刻まれているのである。 |
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| 農村にそびえる、無数の異国風楼閣、これらを作り出したのは、この地から、世界に飛び出し、財を築き上げた華僑たちである。19世紀の半ば、ゴールドラッシュに沸くアメリカに多くの開平出身者が渡った。彼らは「金山客」と呼ばれた。差別と重労働に苦しんだ彼らが、長い歳月を掛け財を築くまでになった、開平の楼閣は、その成功の証である 。 |
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| 開平の望楼閣のルーツは、16世紀に遡る。動乱の時代、多くの民が、この地に逃れて来た。しかし、この地も、洪水や匪賊の脅威にさらされる危険地帯。最初の楼閣は、身の安全を守る「避難所」として誕生した。そして、その数100年後、多くの村人が華僑として世界に飛び出した後は、故郷を思い、故郷の家族を守るための「要塞」としての楼閣が次々に造られていく・・・
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| 緑豊かな村落に、いくつもそびえる異国風の楼閣。中国の農村の風景にしては、極めて異質だ。そこは、“世界建築史上の奇跡”とまで言われる、『開平の望楼閣と村落』(世界文化遺産)。広東省の開平市は、香港、マカオに接する「珠江デルタ」西南にあり、多くの華僑を輩出した土地だ。この地にそびえる、1800を超える異国風の楼閣は、かつて異国へと旅立った華僑が故郷を思い建てたものだ。 |
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| この地に住む、少数民族の生活。 険しい山々と激しい流れの河・・・、彼らは船による交通がない。 そこで、標高数1000メートルの地に、無数の道を作った。 その一つ「茶馬古道」。 肉食を主とする彼らは、不足しがちなビタミンをお茶から摂取した。 この地のチベット民族は、馬で産物を運び、茶葉と交換するために この道を行き来した
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| この地には、「空飛ぶ民族」が住んでいる。リス族、彼らは驚くべき方法で河を渡る。なんと、峡谷の大河の上にロープを張り、まるでレンジャー部隊のように河を渡る。子どもが学校に行く時でさえ・・・。まさに、「空飛ぶ民族」。 |
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| 4億5000年前、インド亜大陸がユーラシアプレートに衝突して、
山々が隆起する地殻変動が起きた。 この変動により、チベット高原を源とする3本の河は、 急峻な山々の間を流れるようになった。これが、三江併流である。 太古の自然が残る、この地は、動植物にとってまさに楽園。 希少動物の宝庫である。 しかし、動物の楽園は、人間にとっては、過酷な生活の環境である・・・。 |
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| その世界遺産は、数十億年に及ぶ、地球の歴史でも最大規模の地殻変動が生み出した 奇跡の絶景である。 長江の上流、メコン川の上流、サルウィン川の上流の、 アジアでも有数の3本の大河の上流部分がこの地を併行して流れる。 それは、インド亜大陸が、ユーラシアプレート衝突して出来た奇跡の地
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| 砂上の大美術館、莫高窟も、やがて人々に忘れ去られた時代もあった。 1900年に、石窟に封印された大量の古文書や書画が発見された。 これが。世に言う「敦煌文書」であった。 しかし、時の権力者・西太后は、これに関心を示さず、海外の探検隊などに よる盗掘を招いてしまう。莫高窟の財産は、世界に散らばった・・・
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| 莫高窟が創られ始めたのは、西暦366年。 楽そんという行脚僧が最初の石窟を掘った。 「この僧より高い者は莫(な)し」と後世の人が称えたのが名前の由来だ。 その後、多くの絵師や職人がこの地を訪れ、次々と仏教美術が花開く。 莫高窟は、彼らが「己が技」を競い合う場でもあった 。 |
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| 莫高窟が創られ始めたのは、西暦366年。
楽?(がくそん)という行脚僧が最初の石窟を掘った。
「この僧より高い者は莫(な)し」と後世の人が称えたのが名前の由来だ。
その後、多くの絵師や職人がこの地を訪れ、次々と仏教美術が花開く。
莫高窟は、彼らが「己が技」を競い合う場でもあった 。 |
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| 莫高窟の誕生秘話。この地がオアシス都市として栄えるきっかけとなったのは、紀元前138年に、漢の武帝が送った使者の大旅行だった。 中央アジアの軍事的同盟国に送ったこの使者は、実に15年の大旅行を行った。その模様が描かれたのが莫高窟だ。そして、その行程が後に、シルクロードになる
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| それは、まさに、砂漠に浮かぶ、壮大な美術館。429の石窟に、2400体を超える塑像と、45000平方mにも及ぶ壁画が残されている。シルクロード交易がもたらした奇跡の世界遺産、それが莫高窟だ。ここには、中国はもちろん、インド、西アジア、ヨーロッパの文物が集まった。様々な文化芸術・・・、まさに「砂上の大美術館」だ
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| マカオは、人と人が融合する場でもある。中国系の子どもたちは、ポルトガル語を学び、ポルトガル系の子どもたちは中国語を学ぶ。中国系の父とポルトガル系の母、という「ルリンちゃん」の家庭。こうした子どもたちを「マカニーズ」と呼ぶ。こうした家族も珍しくない。民族の垣根を越えて生まれた無数の家族、これこそ、マカオの「無形」の歴史遺産である
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| マカオで最も美しいといわれる聖ドミニコ教会は、中米のアカプルコから来た修道士が建築した。マカオの中には、インドのゴア様式で建てられた港の施設もある。そこにはインドからやってきた、約200人の警察官も勤務していたという。 ポルトガルと敵対していたオランダの攻撃を防ぐ要塞・・・、 こうした建築には、西洋と東洋の共存と融合の美が垣間見られる
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| マカオは、東洋と西洋の文化が、東アジアで、最も早く出会った街。16世紀にポルトガルの船が訪れて以来、「海のシルクロード」の玄関口として栄えた。マカオで最も知られた世界遺産が、「聖ポール天主堂」。かつては、東方で最も美しい教会とさえ謳われた。中国の獅子の文様、日本の菊の文様、西洋の文様・・・、この天主堂一つ見ても、海のシルクロードの縮図がある
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| 洋の東西の文化と人が融合した、摩訶不思議は街、それがマカオ。 日本の世田谷区の半分という狭い中に、世界遺産である、22歴史的建造物と8つの広場がある。9月の4回は、各地の文化がちりばめられた、まるで宝石箱のようなマカオへ皆様をご案内いたします 。 |
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| 武燎源の地は、古くから、トウチャ族をはじめとする少数民族が暮らす。 肥沃な農地に恵まれていない彼らは、山の斜面や高い山で、工夫しながら稲作を 営んでいる。まさに「空中水田」と呼ぶにふさわしい、頂きにある水田もある。 トウチャ族は、工芸にも優れ、「錦織り」は、かつては朝廷への貢物だった。 大自然と祖先を崇拝しながら、今も奥ゆかしい生活を続けるトウチャ族。
武陵源は、人々の営みもまた、その「世界遺産」の一部である。 |
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| 武陵源は、希少な動植物の宝庫でもある。温暖で多雨なこの地は、多くの命を育んでいる。ユニークな形の松は、「武陵松」という独特な種。貴重なサルや鳥、オオサンショウウオなど国が指定する保護動物が、数10種類も生息しているという 。 |
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| まさに、天空の楼閣、世界遺産・武陵源の摩天楼。 この神秘の絶景はいかにして生まれたのか? 太古の昔、そこは海の底だった。 およそ2億年前、地殻変動により、岩の層が切り裂かれながら海上に顔を出した。 硬い岩と柔らかい岩のばらつきにより、無数の石の柱が出現した。 |
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| 数100メートルの高さの石柱が林立する、 そこは、まさに、「太古の摩天楼」。 想像を絶する、奇跡の地殻変動生んだ、奇岩群・・・。 唐の詩人・王維が、空想した桃源郷の名が「武陵源」、 その詩が名前の由来。 そびえ立つ石柱の一方で、 その谷間を潤す せせらぎ・・・ まるで空中に浮かぶかのような、水田・・・ 壮麗なる大自然と、そこに暮らす人々の物語・・・。 |
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| 第44回「 秦の始皇帝陵<5> 伝説の地下宮殿
」 |
| 歴史資料などによると、始皇帝が作った伝説の地下宮殿は、盛り土の下にあるという。司馬遷の『史記』は、その宮殿の様子を、次のように伝えている。宮殿には、役人たちの俑と、あふれんばかりの宝物があり、天井には、宝石などで作られた太陽や月、そして、あまたの星がちりばめられている。地面には、始皇帝が征服した中国の山や川、そして海が。だがそれらは水ではなく、猛毒である水銀。宮殿に進入するものを拒む。盗掘への備えがなされているのである。この地下宮殿は、発掘自体が難しいとされ、現在も全く手がつけられていない。始皇帝の棺が人類の目に触れる日は、来るのだろうか。 |
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| 第43回「 秦の始皇帝陵<4> 現代も続く兵馬俑
」 |
| 始皇帝陵の副葬品は、兵馬俑だけではない。その中には、位の高い文官とみられるものもあった。始皇帝は死してなお、彼らに政をさせようとしていたのである。また兵士でも文官でもない俑も見つかった。何と彼らは、皇帝に曲芸を披露する者たちである中国の雑技団は世界的に有名だが、その曲芸の中には、始皇帝の時代から伝わるものもある。それは…
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| 始皇帝は自らの墓を兵馬俑に守らせたが、その子孫は項羽に滅ぼされ、都は焼かれた。その項羽も、漢の劉邦に滅ぼされる。以来地中深くに眠り、実に2200年にわたり、人々に知られることのなかった兵馬俑。その数千体以上の素焼きの俑は、驚くべきことに一体一体すべて顔が違う。さらに天下を統一した始皇帝の軍隊が、いかに強力であったかを証明するかのように。数千もの兵士や、軍馬、戦車は、当時の陣形そのままに、布陣しているのである 。 |
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| 始皇帝は紀元前221年に中国を統一した。その始皇帝が自らの墓を建設し始めたのは、それよりずっと早く、秦王に即位した翌年わずか14歳の時。以来始皇帝陵は、およそ40年かけて建設が続けられ延べ70万人もの人々を動員したという。しかしなぜ始皇帝はこれほど巨大な地下帝国を築き、自ら、の墓を守らせようとしたのだろうか 。 |
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| その世界遺産は2200年前、中国に最初の統一国家を出現させたファーストエンペラーの墓である。いまだ地中に眠る巨大な地下宮殿と、それを守る膨大な数の素焼きの兵士の像。墓全体の規模は56平方キロ。故宮・紫禁城の80倍もの面積にあたる。人類の大いなる遺産。「秦の始皇帝陵と兵馬俑」 。 |
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| 世界遺産・廬山は今も中国最高の別荘地として知られている。あの毛沢東も廬山をこよなく愛したという。19世紀末イギリス人によって作られた別荘地「グーリン」。イギリス式、バロック式、ゴシック式などとてもここが中国とは思えない様々な様式の建築は高度な芸術性を誇る
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廬山には、朱子学の創始者・朱熹が講義を行った「白鹿洞書院」がある。唐の時代に設立されたもので、その後、戦火によって破壊されたが、12世紀の南宋時代に朱 熹が苦心の末復興した。
中国中から多くの優れた人物が集まったこの白鹿洞書院は当時の国の最高学府と言える。中でも異彩を放ったのは、中国に最初に訪れ皇帝にも拝謁したイタリア人宣教師、マテオ・リッチの講義である。彼の来訪により廬山は、東西の文化が交わる場所となった。このことが、後の廬山を大きく変えてゆく 。 |
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| のちに多くの文人が廬山を目指すようになったのは、「田園詩人」と呼ばれた陶淵明の影響が大きいといわれる。才がありながら官に仕えることを潔しとせず廬山に隠遁した陶淵明は、この地で、有名な「桃花源記」を記した。「桃花源記」とは、陶淵明が空想した、理想郷を描いたフィクション。それは初めて“桃源郷”について記された作品でもある。乱世と隔絶された別世界…文人たちはこぞって、そんな廬山に足を運び、優れた文学を、生み出していったのである
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| 古来より多くの文人を魅了し、吸い寄せてきた、神秘の山々。それが、世界遺産「廬山」である。その山々には、かつて、仙人となり天上に昇った人物の、廬が残されていたという。いつしか人は、その山を、「廬(いおり)の山」すなわち「廬山」と呼ぶようになった。 |
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三国時代の蜀の丞相・諸葛孔明は、都江堰こそ、豊かさの源であるとして、毎年1200の兵を送り、修理に従事させたという。
堤防がないにも関わらず、洪水を未然に防ぎ、広大な大地を潤す、世界遺産・都江堰。その秘密とは…? |
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| およそ2300年前に都江堰を作り上げた人物は、戦国時代の秦の配下であったりひょう李冰である当時の拠点であった成都と、長江の支流・岷江を水路でつなぐべく、工事に取り掛かった李冰。だが、やがて大きな壁にぶち当たった。水路の先に避けることのできない山があったのだ。当時はまだ火薬もなく、山を切り開くには、たがねと石鎚で岩を削っていくしかなかった。ここで李冰が考えた驚くべき方法は? |
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| 蜀の国、今の中国四川省は、かつて、あまりの豊かさから「てんぷのくに天府之国」と呼ばれた。その繁栄の源となったのが、この地に豊潤な水をもたらした、世界遺産・都江堰である。都江堰を作ったのは、戦国時代の秦国だった。秦は、強敵である楚を攻めるため、長江を船で下る作戦を立てたが、そのためには、蜀の拠点である成都と長江を水路で繋がなければならなかった
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| その世界遺産は、およそ2300年前に人々の手によって作られ、四川の地を中国で最も豊かな土地に変えた。水不足に苦しんでいた平原は瞬く間に潤い、水上交通は平原の街に富をもたらした。奇跡とまで言われる古代の灌漑施設。その世界遺産の名は「都江堰(とこうえん)」という
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第31回「 万里の長城 <5>
長城を終わらせた 清の戦略
」 |
| 万里の長城は、明王朝を最後に、その役割を終えた。明のとって代わった清王朝は、なぜ、長城を必要としなかったのか? 迫りくる「北の脅威」、ロシア・・・。清王朝は、かつての敵・モンゴルの騎馬軍団を北の辺境でのロシアの備えとした。城壁ではなく、人こそが、国を守る・・・、それが、長い歴史の末にたどりついた答えだった・・・
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第30回「 万里の長城 <4>
現在の長城を築いた明王朝の偉業
」 |
| 現在、見られるレンガ造りの長城のほとんどは、明の時代に造られた。大量のレンガを焼いた当時の窯が後世、発掘された。窯一基で、5000個のレンガが焼かれた。明の時代に築かれた長城は、およそ1500キロ。実に100億個のレンガが使われた計算になるという
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第29回「 万里の長城 <3>
長城に守られた秦王朝の数奇な末路・・・
」 |
| 万里の長城には、一人の女性の悲しい伝説がある。 始皇帝の時代、ある、一庶民の女性が、 建設に借り出された夫を探す為に千里の道を越えて やって来た。夫が死んだことを知り、女は泣いた。 その涙が、やがて大河となり、ついに長城を突き崩した。秦王朝は、この伝説に例えられるように、 農民の反乱をきっかけに滅亡したのだった。 |
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| そのルーツは、紀元前7世紀にさかのぼる。古代王朝の時代、狼煙を上げる“通信”台として築かれた土塁がルーツ。春秋戦国時代の後、秦の始皇帝が5000キロもの長城を完成させた。100万人が建設に携わったという。長城の歴史は、そこに関わった人々の苦難の歴史でもある。 |
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| まるで、この世に現れた一匹の龍のごとく、その姿を大地に横たえている。時代ごとに建設された長城は、延べ5万キロを超えるという。長城の形は、その土地、その時代により千差万別。砂と泥で固めた長城。赤と白のコントラスト際立つ長城。自然の地形と一つになった長城。海へと没する長城。それぞれに秘められた物語とは?! |
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| 水の秘境・九寨溝の周囲には、9つのチベット族の村がある。それが、九寨溝の名前の由来であった。 彼らの祖先は約2000年前に戦乱を避け、この地に住み着き、今も、半農半牧の伝統的な生活を営む。 そして、周辺はジャイアントパンダをはじめとする希少動物の生活の場でもある。九寨溝の神秘の水は、“いにしえ”の人々、そして、希少動物たちの“恵みの水”でもあるのだ。 |
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| 世界遺産・九寨溝の中でも、随一の絶景といわれる湖・五花海(ごかかい)。 真冬でも、五花海だけが凍結しない。なぜか?!その秘密を探るため、水中カメラが、潜った。そのカメラが捕らえたものは…、それは、湖底から、温かい水が湧き出ていた。何年もかけて地下を流れ石灰岩をたっぷり含んだ湧き水それが、五花海の神秘を作り出していたのだ
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九寨溝の水面はまさに鏡のようにきらめく。
数10メートルの底が見渡せるほどだ。その、水の美しさの謎とは? 湖底は、白い石灰岩質。なんと、九寨溝のある海抜3000メートルの山岳地帯は太古の昔、海だったという。近くの山から、珊瑚の化石も発見されている。水の絶景、そのルーツは、美しき珊瑚の海だったのである。 |
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3月は、「水の秘境」、九寨溝 シリーズ。
108の湖、希少な動植物・・・「9つの村の谷」という意味を持つ自然遺産、それが九寨溝である。
そこは1970年代まで、ほとんど人が分け入ることの出来ない秘境だった。そのため、今も、太古の自然が残されている。
伝説によると、九寨溝は、山の女神が鏡を地上に落とし108つに砕け散ったその破片だという 。 |
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| 今回は、村を守り続けた悲しい妻たちの話。西逓・宏村の男たちは、中国全土を巡る商人だった。 村には滅多に戻らず、その留守の間、村を守ったのは女(妻)たちだった。村には、貞節を守り続けた妻を称える記念碑がいくつもある。 寂しい人生を送った代償として与えられた名誉。その記念碑は、女たちの嘆きの声であった。 |
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水に恵まれた美しき村、宏村。
そこは、著名な風水師が10年に及ぶ調査の末に設計した村だ。風水師が考え出した、村の形は、「寝そべった牛」だった。村の中には、「牛の胃袋」をイメージした2つの湖が作られた。その後、村は飛躍的に発展、「寝そべった牛」のご利益なのかも知れない 。 |
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世界遺産の古村落・西逓に住んだのは、戦乱の都・長安から落ち伸びた人々の末裔。
特に、その村を作ったのは、唐の19代皇帝の子孫だとも伝えられる。皇帝の血筋をルーツに持つこの村落からは優れた官僚や商人を多く輩出した。彼らが築いた富は独特の建築様式の建物を村にもたらした。そこは、皇帝の末裔が流浪の末にたどり着いた安住の地。まさに桃源郷であった
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| 風光明媚な大自然の中にある、 古村落 西逓(せいてい)、宏村(こうそん)を紹介する。 その村は、詩人・李白が「小さな桃源郷」と称えた村。 明から清の時代にかけて、多くの豪商を輩出し、 当時の中国経済を支えた。いにしえの豪商たちが 贅を尽くして作り上げた、幻想的な村である。 |
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5回目は昆曲の数奇な歴史をご紹介 。
その誕生には、モンゴルの中国支配が思わぬ形で関係している。モンゴル支配で不遇にあった知識人が物語の創作に、その知識を向けた。 当時の中国の最高の知識人が生み出した昆曲。一方で、その高尚さゆえに、やがて衰退の道を歩む。清朝の末期に、昆曲の代わりに台頭してきたのが庶民にも分かりやすい「京劇」だった。 その、およそ100年後、世界無形遺産に選ばれるまで、昆曲は、「冬の時代」を耐えなければならなかった・・・ 。 |
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昆曲シリーズ4回目は昆曲の楽しみ方を紹介。
昆曲の登場人物は、その性別や性格によって、決まったキャラクターが与えられる。「 生 (せい)」、「 旦 (たん)」、「 浄 (じょう)」、「 丑 (ちゅう)」の4つの役柄。「 生 」は主に男性の主人公。風流で闊達な役回りが多い。 「 旦 」は、女性全般。「小旦」と呼ばれる美少女役は優雅で上品、かつ、あでやかさも合わせ持つ。 「 浄 」は、敵役。 「 丑 」は道化役。 彼らの演技がストーリーに奥行きを与えているのである。 。 |
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昆曲には「工尺譜」という、独自の様式で記された楽譜がある。7つの漢字を音符として用い、歌詞の傍らに記した。この楽譜のおかげで我々は、数100年前のメロディーを楽しむことが出来る
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夢か現実か分からない、摩訶不思議な世界感が「昆曲」の真髄。夢で出会った青年に恋した姫。恋に絶望した姫は死んでしまい、
実は実在した「青年」は、姫の墓を掘り起こし、魂を蘇らせる。人生は夢の如し・・・。 |
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1月は、
「昆曲(こんきょく)」と呼ばれる演劇(無形文化遺産)シリーズ。
第1回目は
明の時代に誕生し、600年の歴史を持つ「昆曲」は中国のオペラと呼ばれる格調高い演劇だ。
あでやかなメイクと衣装、歌とセリフは非常に詩的。
役者は仕草だけで、情景や心の動きを表現する。
その立ち振る舞いは息を飲むほど美しい。 |
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黄山を描く画家に焦点を当てる。
神秘的な風光明媚の黄山は、歴史的に、そこを描く、多数の画家を生み出した。 中には生涯を、黄山の描くためだけに費やした画家も居た。 心の山・黄山は、芸術の一ジャンルをも生み出した山である。 |
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黄山の貴重な植物に焦点をあてる
その独特の険しい地形と痩せた岩石の土壌は他の場所では見られない植物を生んだ。特に奇岩に生える松は黄山を象徴する。黄山の松の中で、もっとも有名なのは、樹齢1800年、三国志の時代から 存在する松だ。松は生命力の象徴でもある。 |
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切り立った断崖、奇妙な岩 岸壁に根を下ろす不思議な形の松…、 これら、黄山の自然の芸術はいかにして生まれたのか?
この回はCG画像を使い2億年の歳月をかけて、花崗岩のマグマが隆起し黄山を作り上げた内容を解説する。 |
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第一回は、その幻想的な自然美。独特の姿の松の木。奇妙な形の岩。山を神秘に包む雲海。黄山は、南北に40キロ、東西30キロのエリアに神秘的な山々がいくつも折り重なる。
その最高峰は1800メートル。「黄山を訪れたら、ほかのいかなる名山も見る必要が無い」、という言葉さえある、中国人の「心の山」である。 |
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| 故宮の建物の屋根には、色とりどりの鮮やかな瓦が用いられている。それは、古の中国人が信じた「五行思想」に基づく。 皇帝の建物の瓦の「黄色」皇子の建物の瓦の「緑」それぞれの「色」に込められた意味とは!? |
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故宮に秘められたある「数字」の謎に迫る。紫禁城の門の鋲は、9列9行。屋根には9体の獣の像。かつて部屋の数は9999室あったと言う。権力者が好んだ「9」の秘密とは!? |
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600年の歴史を持つ「故宮」は南北960m、東西750mの世界で最も壮麗にして、巨大な宮殿である。
15世紀の建設には18年の歳月を要した。そして2002年から始まった大規模修復プロジェクトは、現代の技術を持ってしても19年かかると言う
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故宮には、かつての皇帝が、その権力で世界中から集めた膨大な宝物が集められた。 現在もその宝物が眠る「故宮博物院」は、かつての名を「紫禁城」と言った。 そして、紫禁城は、北方の敵に備えた、要塞でもあった。
今回から、オープニングテーマ曲に、喜多郎がこの番組のために作曲したオリジナル曲を使用
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中国の広大な大地には、今も古(いにしえ)の生活が残っている。
李白が「小さな桃源郷」と呼んだ村、女性中心の母系社会が今も営まれる集落、洋の東西が融合する街・・・。
そこに暮らす人々は、何を想い、どんな暮らしの知恵を育んできたのか。 |
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| 5000年の歴史を内部のエネルギーとして支えてきた「芸術と文化」を紹介。 |
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| 権力者の数だけある文化遺産とそこに生み出された人間ドラマを紹介。 |
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番組全体のダイジェスト。
中国5000年の歴史とCCTVの秘蔵映像の数々を豪快に紹介。 |
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