
歴史上の異才たちはどんな人生を
過ごしたのでしょうか?
多様性の時代に生きる私たちには
計り知れない苦難が
そこにはありました。
“彼らは何を信念としていたのでしょうか?”
そして庶民たちは、
彼らをどう受け入れてきたのでしょう?
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、
民俗学・考古学・脳科学の
観点から
掘り下げていくと、当時の日本人たちの想いなど
「知られざるニッポン」の本当の姿が
見えてきます。
毛利攻めの最中だったので、半兵衛の遺体を埋葬(土盛り)し、木を植えて墓標代わりにしていたという。この山の裏側には、もう一つの半兵衛の墓がある。江戸時代初め頃の形式なので、戦国の世が終わり、埋葬地の近くの場所に新しく墓石を建て、弔ったのではないだろうか。
半兵衛の死後、約200年後の文化3年(1806)、時の竹中家の当主の命で、家臣たちが「家祖」である半兵衛の墓所を見に行ったところ、地元の農民たちが「小山と樹木を柵で囲って」供養を続けていた。これに感謝した竹中家は、墓碑が無かったため櫛型の石塔と石燈籠2基を建立。さらに覆堂・土塀を建て、墓道も整備したという。
半兵衛のお墓で特筆すべきは2つ。1つは敵方の農民が墓を守っていたこと。秀吉軍が毛利方の三木城を攻めていたので、地元の農民にとって半兵衛は敵方の武将だ。しかし敵味方無しに半兵衛の墓を大切に守り続けていたこと。2つ目は半兵衛の子孫たちだ。200年後に改めて始祖・半兵衛の墓を調査し、新たに墓石を建てたことだ。先祖に感謝する気持ちがあったからこその行為だった。
徳本上人(1758-1818)
1日1万回の念仏礼拝等の苦行を一日も欠かさなかった。その姿が人々の心を打ち、瞬く間に大人気となった。上人が書く独特の文字に人々は熱狂し、その文字を使ったお墓や道標などが広がった。
熱狂したのは庶民だけでなく、仁孝天皇や11代将軍徳川家斉、紀州徳川家など皇族、将軍、諸大名からも熱烈な支持を受け、あの小林一茶も徳本の大ファンで、徳本上人を題材にした俳句も多数ある。
42歳の時、徳本上人はこの山の奥にある「勝尾寺」を拠点にした。毎月15日に念仏を勤める時、その姿を一目見ようと2,000~3,000人にも人が集まったと記録に残っている。人々は徳本上人に文字を書いてもらい、墓に写して刻んでもらったという

カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー
墓マイラー、カジポンさんの独特のお参り方法。墓に直接触れ、偉人に感謝を伝えるソウルトーク。「海外ではめちゃくちゃ不審者扱いされるんですよ〜」というカジポンさん。カタコト英語で理由を伝えると理解してくるそうですが、結婚して子供が生まれてからは怪しまれないように「家族同伴」で行くそうです。
今回は天才軍師「竹中半兵衛」のお墓。 何枚かの写真を手に持っていますが、 一体何を伝えたのでしょうか?
歴史ファンの中野信子先生も、特にその行動原理が知りたいとソウルトークに挑戦!?どんな答えが!?