
歴史上の異才たちはどんな人生を
過ごしたのでしょうか?
多様性の時代に生きる私たちには
計り知れない苦難が
そこにはありました。
“彼らは何を信念としていたのでしょうか?”
そして庶民たちは、
彼らをどう受け入れてきたのでしょう?
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、
民俗学・考古学・脳科学の
観点から
掘り下げていくと、当時の日本人たちの想いなど
「知られざるニッポン」の本当の姿が
見えてきます。
小町の墓は柳田國男が調べた結果全国36か所もあったと言う。こちらは小野小町終焉の地と伝わる。墓は層塔と呼ばれる古来からある形。小町の死後、数百年は経っているが、終焉の地と伝わるこの寺にお参りする人も多く、有志たちが新たに墓を建て直したのではないだろうか。
本堂には「小町老衰像」がある。絶世の美女と謳われた彼女だが、あえて老いた姿を造らせたという。小町の心境はどんなものだったのだろうか?境内には亡き骸から生えたというススキや「姿見の井戸」などの遺跡も残されている。
小町伝説として最も有名なのが、「百夜通い」(ももよがよい)。 深草少将の熱心な求愛にも小町は決してなびかず、逆に諦めさせるため、「私の所に百夜通ってくれれば、思いをかなえてさしあげましょう」と深草少将へ告げる。
深草少将は99日夜まで通い、ついに100日目を迎えたがこの日は大雪。無理を押して出掛けたが、少将は小町の家には現れなかった。雪に埋まり凍死したとも言われている。補陀洛寺には深草少将の墓もある。しかし階段の上にある小町の墓との距離が、あと一夜足りなかった少将の切なさを想像させる。
この地にキリスト教が伝わったのは、キリシタン大名・高山右近が天正元年(1573)、高槻城(大阪府高槻市)の城主となり、茨木の山間部を支配。領地では多くのキリシタンが生まれた。
明治6年(1873)に禁教令が解かれた後もこの地での信仰は秘匿されていた。しかし大正9年(1920)、 発見された墓にキリシタンを表す十字「千」の文字が記されていたことからキリシタンの墓と判明。約350年ぶりにこの地が「隠れキリシタンの里」であることが証明された。
これをきっかけに地区から数多くの貴重なキリシタン遺物が発見され、あの有名な「聖フランシスコザビエル像」もこの付近の家から発見された。数多くの聖画が禁教で破却された中、江戸初期の洋風画として極めて貴重なもの。

カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー
墓マイラー、カジポンさんの独特のお参り方法。墓に直接触れ、偉人に感謝を伝えるソウルトーク。「海外ではめちゃくちゃ不審者扱いされるんですよ〜」というカジポンさん。カタコト英語で理由を伝えると理解してくるそうですが、結婚して子供が生まれてからは怪しまれないように「家族同伴」で行くそうです。
今回はのあの絶世の美女「小野小町」のお墓に、何かを伝えています。一体なにを!?でも、この写真だけを切り取るとホントに「不審者」にしか見えない!?
歴史ファンの中野信子先生も、特にその行動原理が知りたいとソウルトークに挑戦!?どんな答えが!?