
歴史上の異才たちはどんな人生を
過ごしたのでしょうか?
多様性の時代に生きる私たちには
計り知れない苦難が
そこにはありました。
“彼らは何を信念としていたのでしょうか?”
そして庶民たちは、
彼らをどう受け入れてきたのでしょう?
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、
民俗学・考古学・脳科学の
観点から
掘り下げていくと、当時の日本人たちの想いなど
「知られざるニッポン」の本当の姿が
見えてきます。
三基の墓石が、特別に囲われている。
中央は、足利幕府の第8代将軍で、東山文化を築いた足利義政(1449~1474年)。左は、平安時代末~鎌倉時代初期の公家で歌人の藤原定家。
若冲は相国寺の高僧・大典顕常(だいてん けんじょう)に禅の教えを学び、絵の才能を見いだされ,相国寺が持つ中国絵画を模写する機会を与えられた。その後は相国寺に作品を寄進している。 また明和3年(1766年)に大典顕常の撰文による生前墓を相国寺に建立した。
隠居後の若冲は、作画三昧の日々を送っていただけではなかった。実は町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っていた。商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀り、京都町奉行所を巻き込んだ。これに対抗して若冲は江戸勘定所や農民を味方にして奔走。3年後にようやく銀35枚の冥加金を納める条件で錦市場は再開された。こうした事情のため、この時期に描かれたことが解る作品は殆ど無い。
この石幢は重制六面石幢と呼ばれ、六面に「地蔵菩薩像」が半肉彫りされている。亡くなった人が生前の行いによって審判を受け、生まれ変わる六つの世界(六道)のすべてを巡って救済を行うと考えられていたので、“死後にどこに行っても成仏できるように”と永享9年(1437)12月24日に2人の人物が生前に建立したと思われる。
悪名高い室町幕府の6代将軍・足利義教の時代。義教は自身の出身の比叡山延暦寺を焼き討ち寸前まで追い詰めたり、次々と有力守護に圧力を掛け領地を奪うなどの圧政を敷いた。守護たちは次は自分の番かもしれないと不安を抱え、反乱を起こす者が出るなど、「万人恐怖」という義教の時代を象徴する言葉を書き記す文献もあるほど非常に不安定な世の中だった。

カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー
墓マイラー、カジポンさんの独特のお参り方法。墓に直接触れ、偉人に感謝を伝えるソウルトーク。「海外ではめちゃくちゃ不審者扱いされるんですよ〜」というカジポンさん。カタコト英語で理由を伝えると理解してくるそうですが、結婚して子供が生まれてからは怪しまれないように「家族同伴」で行くそうです。
今回は天才絵師「伊藤若冲」のお墓。
何枚かの写真を手に持っていますが、一体何を伝えたのでしょうか?
でも、ここだけを見ると、猛暑で気分が悪くなった人にしか見えないのですが…。
歴史ファンの中野信子先生も、特にその行動原理が知りたいとソウルトークに挑戦!?どんな答えが!?